ミントの葉っぱがいよいよさびしくなってきた。

実は、通風持ちという事情から、水を毎日たっぷり飲まなければならない。
しかし、水だけをさあ飲みなさい、と言われたところで、飲めるものではない。
そこで、新緑の頃にハーブを幾種類か栽培し始め、キューバのモヒートのように、大きいグラスにたっぷりミント系のハーブを入れて浮かせ飲んでいたのだ。
これは実に気分がいい!グラスの水の透明度も増す気がする。
こうすると、何故か抵抗なく多量の水がスーッと喉を通る事が分かってから、夏場はずっと何年も続けている。

そのクールミントの葉もそろそろ終りになるとグラスに入れるものが無くなってさびしい。夏がいいなあ。
やっぱり、キューバとかアフリカの熱帯系地域に好みが寄るのは、こんなことも理由の一つなのかも知れない。
‥いや、ただののんべえだったなごりか?

布の形をとるアートが在る。ひょうたん屋のアート古布がそれだ。
ひょうたん屋のギャラリーを見て欲しい。
古布というと、血筋血統からの判断からなかなか逃れられない中で、
ひょうたん屋のアート古布のピュアな美しさは、むしろ現代美術の一種であろう。

普通の布にもドラマがあるのだ!
布に残る繕いの継当ての無思念性は、自然退色の美しさをバックに強烈なドキュメンタリーを内包している。
小さい形の中に虚構でない出来事を秘めているのである!
なにゆえに、繕いを余儀させる生地を裂く出来事は起こったのか?
今となっては、解き明かせない謎であるのだが‥。
アート古布は、無言のうちに過ぎ去る時間をその空間に定着させている。

仏像、神像、作品、などとの出会いは、これらの空間に、血の通った現在形の華やかさと真実味を帯びさせている。
私に、どこかで妙好人を感じさせた‥。
特別でないものが昇華した瞬間ほど美しいものはない。

ひょうたん屋はアート古布を看板に掲げている。
アート古布というのは、アンティークと言うだけではない。
繕いや、退色によって、存在感にますます磨きのかかった布のことである。
そのものの美しさはきわどい。

昔、今は亡き絵の師匠と奈良に出かけてはよく古い門や寺などを絵に描いた。屋根が壊れたり、退色し傾いたりした寺などは、壊れるところは壊れ、ギリシャのトルソーのように強烈な美しさと存在感を放っていた。
その存在感は凄みを帯びて、心の深くに突き刺さった。

ひょんなことから、これを布に発見した時には思わず興奮した。
このような布は、運命を逃れたものだけが生き残っているのである。
用の役に立ってきた命を過ぎて、その退色の風合いや、繕いそのものが
ドラマチックな美しさを放つ。
その布の出生は、むしろ特別ではないのである。
しかし、その美は強烈だ。
コギリ製作について、ガーナと日本の違いを如実に味わう事がある。
「仕上げ」だ。

アフリカでは仕上げという話をあまり聞かない。
ひょうたんなど、塗装はすることは有るが、仕上げという感じではない。
ある意味で、日本での「仕上げ」ということは、見てくれに気持ちまで込めていますということが感じられる。

大量生産品の見てくれはきれいだ。
大事なのは、中身よりも、そのような形式化された「仕上げ」だったりすることもある。見た目きれいだが何か決定的に足りない。
職人技も大量生産を通過するとどこか虚しい。

当然ながら、手仕事でも、仕上げばかりがあまりにも幅を利かせ過ぎると嫌味だ。
すべての面白みを一気に失うこととなる。

これが、最近の新しい流れとしての、ビンテージや古物となると、話が大きく違ってくる。
壊れたもの、や経年変化は当初のものより魅力を数段も増してくるのだ。
やっとそういう価値の認められる時が来ている。
男性諸氏!手前味噌だが、ぜひここで本物を紹介したいと思う。
ひょうたん屋のサブバックは使いやすい。

エコバックとしても最適である。
実は以前から、私も実際に愛用しているのである。
大型木琴のコギリを野外で叩く時には、さらにイスとビーターが必要だ。
ここで、肩から掛けられ、腰掛イスまでも入ってしまうとんでもない収納力が実力を発揮する。

とくに肩からずり落ちないのがイイ。
しかも丸めればクルクルっと小さくなる。
使い勝手はどこか風呂敷に近い感覚である。

リバーシブルのしゃれた作りは、片面にビンテージ布をふんだんに使用している。
逸品物だ。
反対側はアフリカンプリントの明るいデザインで、どちら側からも、隙間をのぞく感じが粋なのである。

自由な趣味の世界まで堅苦しいバックはナンセンスである。
控え目にも、他にない主張をしてくる布バック。
女性だけに使わせておくにはもったいない代物だ。